明治維新を迎えたときは天保の大凶作などを経て、近藤家以外の大鉄山師は姿を消していたが、明治初期には通貨の改革、鉱物国有化の実施、また物価上昇と鉄類輸入の開始によって鉄市場は混乱を極めていた。


  近藤家は既に天保7年(1836)に大阪岡崎町に自家産鉄販売の出店(鉄店)を置き、独自の販売網を確保して鉄を売り捌いていた。また出店の支配人は明治 になっても年に1~2回は東海・東山・北陸道中筋にある鉄の仲買人を訪問して鉄を売っている。また当時国内外の情報に乏しかった根雨本店には、大阪出店か ら数日ごとに手紙を送り、これがまた本店の判断を容易に促すことになった。


  明治15年となると維新以来発行してきた不換紙幣の回収により全国的にデフレ傾向となり、明治17年には10年と比較して郡内たたら数は25ヶ所(自給的 小鉄山師を含む)から18ヶ所に減少、砂鉄採取高は2万駄(60万貫)減少、郡内産鉄販売総価格も13.6万円から僅か5~6万円に減った。この不況に対 して、安永8年(1779)からほぼ順調にたたら経営を放棄するかどうかの岐路に立たされる。


  そこで喜八郎は、古来からのたたらの炉生産は残し、大鍛冶部門に蒸汽機関と蒸汽鎚の導入で合理化を図る決断をして溝口二部の福岡に新工場をつくり、明治 21年から操業を開始する。この工場は順調に従来のたたら錬鉄部門の生産量の数倍の成績をあげ、やがて大正期には近藤家全体の6たたらが生産した鉄の 81%を集めて錬鉄とする主力工場となった。


  明治20年代中頃には、輸入鉄が和鉄の半額の価格で多量に出回って来たので、たたら製品には刃物、造船資材などに限定され始める。しかしこの頃から軍部、特に海軍からの注文が多くなり、出雲の鉄山師と共同で呉、横須賀の工廠其他に納品が多くなる。


  大正期に入ると、第一次大戦のはじまりで鉄の需要が高まり、鉄価は急上昇するが、大正8年の大戦の終わりとともに鉄価は3分の1に急落し、近藤家はたたら を休業すると共に、最後まで残した谷中山(山上)、新屋山(多里)、吉鈩山(大宮)も大正10年には廃業とし、ここに143年間途絶えることのなかったた たら稼業を終わり、以後は特殊鋼を英国、スウェーデンなどから輸入し「旭ハガネ」と称して販売することになる。なお、昭和3年には、新しく東京神田に東京 支店をつくり、輸入鉄の販売をはじめる。


 


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たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏