鳥取藩は元禄7年(1694)たたら全体を把握し運上銀を課するため鉄奉行、鉄山 目付をおき御手山制度(たたらを藩営)をはじめたが、これによりたたらが衰微して来たので元禄11年(1698)にはこの制度は取り止めとなり、以後たた らの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみで許可されるようになった。


  其他藩は日野産鉄を米子に集め、為替金ほ交付して鉄買船に売渡す海路為替回漕仕法(寛政12年~1800)、また鉄鋼銑江戸直回仕法(文化13年~1816)、境鉄山融通会所の設置(天保6年~1835)など産鉄の販売を促進する政策を進めている。


  江戸期に活躍した鉄山師達の氏名また鉄生産量については詳しい記録は見当たらないが、文化13年からの江戸直回仕法の記録(近藤家蔵)によれば、根雨手嶋 伊兵衛家(松田屋)一族の出荷は2059束(27796貫)、金額は1728両であったが、次に多く出荷したのは根雨近藤家、更に大宮・生山の段塚家、大 宮の青砥孫左衛門(福市尾)、黒坂の緒形、法導寺の音右衛門一族(伊田屋)、二部の足羽助八と続いている。


  たたらの労働者数は、安政5年に(1858)に近藤家が経営していたたたらは7鉄山であったが、その内労働者とその家族の氏名、出生地などが記入してある「役人別増減取調帳」をみると6鉄山の山内人口は合計658人、内職人は241人であった。


  従って当時郡内に30近くあったたたら全体の労働者は多くいたことが推定出来、更に村方からの出職者を入れると鉄山の人口扶養力は大きなものであった。
 

  幕末から明治元年にかけて、近藤家を除くたたらの調査で「たたら、鍛冶屋稼方書上帳」(近藤家蔵)をみると、明治元年奥日野分(奥日野とは下黒坂、下菅以 南の日南町)として立石村福来山、葉侶村篠原山以下20ヶ所のたたらが報告されているが、いずれも小鉄山で、稼業も年間数ヶ月の自給的たたらであり明治初 年には姿を消している。


  江戸期、たたらの経営について詳しく書き上げた名著に『鉄山必用記事』(鉄山秘書ともいわれる)がある。この著作は江府町宮市の鉄山師下原重仲が、天明4 年(1784)、47歳で書き上げたもので、重仲は「鉄山のことは昔より書き伝えたものはなく口伝のみである。これでは今後たたらが衰微するので、気のつ いたことを不要な紙に書き残したものである」としているが、村下、山子の大工(大鍛冶職人)などの古老から聞いた話も書き入れている。内容は金尾子神のこ と、たたら歌、砂鉄の採り方、炭の焼き方、炉の造り方など、たたらのことに関するすべてのことについて記述してあり、江戸期たたら経営、操業に関する解説 書としては最高のものである。

 

  しかし重仲は多くの資本を持つ鉄山師の力が強くなり、小鉄山師の経営は困難になったと嘆き、たたら経営をやめている。重仲は鉄山師として四代目とされているが、二男の恵助もたたらを江府町俣野の日名山で経営している。

 


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たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏