2012年07月

長らく工事中でした根雨楽舎がリニューアルオープンしました。
展示はそのままで、建物は明治の質感に復元されています。
土、日、祝日の10:00~16:00開館
入場無料です。
休憩やトイレ利用もできますのでおいで下さい

奥日野の観光ガイドを行う組織ができました。
 
2014年3月 ホームページを開設しました。 http://okuhino-club.jp/

出雲街道散策や古民家コンサートなどイベントを主催しています。 

観光シーズンを迎え、根雨のまち散策マップのダイジェスト版をアップします。
なお正式なものは根雨楽舎で無料配布しております。
こちらから

金持神社

金持神社
全国で一箇所しかない縁起のよい名前の神社です。太平記で一躍注目を浴びた後醍醐天皇が隠岐島から脱出した際、天皇に従い船上山へと義兵を挙げた元弘の忠臣・金持影藤が必勝祈願をしたと伝えたれています。
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出雲街道 出雲街道 宿場町
日野町を通る国道181号線は、その昔地方の人々が大阪・東京方面に行き来する唯一の道として発展し地方文化に大きな影響を与えました。日野町根雨は江戸時代に「出雲街道」と呼ばれ松江藩の殿様が参勤交代をする際の宿場としてさかえました。
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祇園橋 祇園橋
祇園の森に建つ根雨神社の鳥居に通じるこの橋は、日野町ゆかりの長谷部信連公が京都の文化を模して造ったと伝えられています。(根雨駅から400m)
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宝仏山 大山隠岐国立公園 宝仏山
平成14年に大山隠岐国立公園に編入され、現在は登山道が開設されています。山頂までは標高差800m、登りは約2時間、山頂からは大山や美保湾が一望できる。
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塔の峰 塔の峰公園
台上から根雨の町並みと遠く大山の南壁が一望できる公園で春は桜の名所として知られ散策コースとしても親しまれています。
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小説 「TATARA」感想文 優秀賞と最優秀賞の発表

たくさんのご応募をいただきまして誠にありがとうございました。長文・短文それぞれの優秀賞と最優秀賞を発表いたします。

 

長文の部

  • 最優秀賞 Y.S
  • 優秀賞  M.K様  H.K


短文の部

  • 最優秀賞 I.I
  • 優秀賞  Z.M様、 M.F様、 M.S様、  様、  

佳作、およびアンケートをお寄せいただいた方の中から抽選で25名様に地元産お米(佳作)と地元産お味噌(アンケート)のプレゼントをお送りさせていただきます。

 

 

長文の部 最優秀賞 Y,S様 

 明治五年(1872年)の春四月、ヒロイン大江りん(15歳)の旅立ちに幕を開ける長編の力作、『TATARA』。りんの生家の米子から日野谷根雨宿、たたら経営の大庄屋、黒井田家を目指しての奉公始め、七里半(30キロ)の長道を歩いての一人旅である。駕籠での旅を勧める母に「奉公に上がる身の私がお姫様の輿入れの真似事はでまきせん」と拒わり、「賢く、強い女人であれ」の父の遺訓を胸に刻んでのりんの生涯を象徴する旅立ちではあった。

さて、日本の製鉄のルーツは1500年前の古墳時代といわれ、この中国地方の山地は、砂鉄の含有量が高く、森林資源も豊富であったことから、古くから「たたら製鉄」が盛んに行われ、特に日野谷、奥出雲の両地方は、その二大生産地、幕末には、全国の鉄の八割をこの両地方で生産するまでになっていた由。黒井田家のたたら製鉄は安政8年(1779年)~大正10年(1921年)までの143年間の長きにわたる操業、最盛期には4〜5千人の従業員、その家族を含めると実に2万人を超える人々の生活と日野谷の経済を、黒井田家のTATARAが支えていたという。

この製鉄の操業についても、歴代党首は、下流域の水不足や稲作への影響を配慮し、砂鉄を採取する「鉄穴流し」は、一年おきの隔年流し、採取時期は夏場を避け、秋彼岸から冬への半年流しであったとのこと。

そして明治19年秋、2年ががりで江府町宮市原の持ち山を開拓し、四十町歩(40ヘクタール)の広大な農地を造成する等、すべては「日野谷のため」との信念で生きた歴代当主。郷土史に疎い私には、まさに目から鱗の驚きである。

巻末の著者の「謝辞」によれば、この物語は、鳥取県日野郡日野町根雨の「たたら」経営の近藤家をモデルとし、幕末から大正に至るまでの近藤家の当主像が原型であるものの、あくまでもフィクションの由。しかし、随所に史実を巧みに織り成しての迫真性のあるストーリーの展開、黒井田家三代の当主を支え、たたら社会で健気に生きたりんの生きざま、「残照」で終わるりん64歳の生涯、まさに感動の物語である。

ところで、りん旅立ちの舞台となった出雲街道の間地峠(標高479メートル)は、私の生まれ故郷の日野町舟場と、伯耆町二部との境界の峠。今年米寿を迎える私は、幼い頃、祖母に連れられ約8キロ離れた二部の叔母宅を訪ねるとき、何回かこの峠越えをしたことがあり、忘れることのできない思い出の峠である。また、故郷の舟場の菩提寺である正音寺の隣地に、私の実家の狭い三段の棚畑がある。その畑土には金くそ(ノロ)が多く、深く掘った底地にはおおきな横穴があったこと等、幼い頃の記憶があるが、のだたら跡では? そして、黒井田家の舟場山たたらは、どの辺りにあったのだろうか?伯耆の地に出雲街道とは?等々、この物語を契機に望郷の思いしきりである。

1500年という永い歴史をもつといわれるTATARA製鉄の故郷の遺跡は、どのような現状にあるのか。先に世界遺産登録された石見銀山遺跡に優るとも劣らぬ貴重な文化遺産ではないだろうか・・・。

平成12年10月6日発生した鳥取西部地震により大被害のあった郷土、過疎、高齢化に悩む中山間地、そして無縁社会といわれる歪な現代社会の中にあって、このTATARA社会の物語は、故郷の復興、再生への道標の一つといえよう。

終わりに、郷土史関係諸先生による、近藤家所蔵の古文書の解読、研究による更なる成果を期待して筆をおく。

 

 

長文の部 優秀賞 M.K

りんとして、心地よい

 だいぶ昔だが、仕事でビジネス書を作っているよと祖母にいったら、それは何かと聞かれた。なんとなく通じれば十分と思い、「仕事のやり方の本」と答えておいた。
でも、間違っていた。『TATARA』で描かれる鉄作りはまぎれもなく仕事だが、カタカナ語の「ビジネス」なんかではまったくない。

仕事とビジネスは軸が違う。鉄作りが仕事の本体であるなら、ビジネスは「職人雇用方法」「作業現場リストラマニュアル」といった、やりくりのコツでしかない。それにしても、どうしてこんなずれた方面に考えが巡るのだろうか。昔、編集系のジョブを切り回してちょこちょこ食べている私に、ある人がいった。

「そういうのは、仕事ではないような気がしている」 大企業で勤め上げた初老の男性だったが、製鉄エンジニアだった。「人がみんなモノ作りをやめ、やりくりで儲けようとする側に回ってしまったら、国が死ぬ」ともいっていた。当時はあまりピンとこなかったが、『TATARA』によって、そのやりとりが古傷みたいにちくりとよみがえってきた。

自然と格闘して原材料を作ることは、商売だけでできることではないだろう。この本に描かれる日野のたたら職人はみな、強烈な自尊心や夢に支えられているのが窺える。

そして、私はどう考えてもこれまでの人生で、原材料といえるものは1グラムも作ったことはない。これから先もないだろう。人が作ってくれた原材料を消費して暮らしていくだけだ。そう思うと、ふと落ち込んだりもする。個人的な劣等感や回想はこのぐらいにしておこう。

この『TATARA』は、ボリュームが苦にならず、爽快に読了できた。文章の美しさや、元々この時代に関心があったことなどもポイントではあったが、もっと考えてみると、自分好みなテイストが三つ入っているようだ。

一つは、主人公りんの苦難への対し方。最近流行る小説は、一つの心の傷に生涯こだわり、リベンジのためだけに生きるようなものが多いように思う。悲しみには共感できても、そういう人生の使い方にはきわめて疑問だ。悲惨な体験も、「諦め」や「するべきこと」や「日にち薬」でまぎれ、薄れていくのがたいていの人間ではないだろうか。「心の奥底はずっと悲しい(悔しい)けれど、やることやりながらまあまあ生きてます」というほうがずっとリアリティがある。りんの乗り越え方は、まさにそんな感じだと思う。

二つ目は、血のつながらない子を育て上げるところだ。なぜだか昔から「血縁ではないけど、ウマがあうのでいっしょにいるの」というような、不思議な関係の人たちをみるのが好きだった。

でも世間には「自分でおなかをいためてないと所詮他人」という考えの人も多く、そういう言葉を聞くたびがっかりしてきた。なので、りんが直矢に愛情を注ぎ、直矢がそれに応える様子にとても引き込まれた。思い入れが強かった分、二人の別離はつらかった。

そして三つ目は、りんと誠吾。互いに芯の部分で強く惹かれ合っているものの、具体的には踏み出さずに終える。実はこういうのにも弱い。がんがん進み、相手に分け入っていくばかりが愛ではない・・・要は、自分のちっぽけなロマンである。なので、二人とも独り身になったときには逆の意味でハラハラした。結局くっつくという展開は、悪くはないんだけれど、やはりちょっとイメージ違うなと。

この『TATARA』、試験問題のように主人公の名前が穴埋めになっていたとしたら。

「りん」以外に思いつかない。ギンリンソウのりん。凛としたりん。リンと鳴る鈴も、鉄でできている。動輪のりん。そして、倫理のりんである。(了)

 

 

長文の部 優秀賞 H.K

「凛」とした「りん」

私達が知っている様で、実は案外知らなかった近藤家「黒井田家」とたたらについて、又、それに携わる人々の姿を大変興味深く読みました。


いきなり二部、米子、根雨、間地等の身近な地名が出て来て、非常に親近感を覚え、思わず引き込まれましたが、それは、明治の中期から大正にかけての、あまり遠くない我々の祖先の時代だったのです。あたかもモノクロの映画をみる様な、懐かしさと暗さが映し出されています。そこにはこの地方の土と汗にまみれ懸命に生きる人々の生活を垣間見ることが出来ます。たたらに無縁の方にも新鮮に伝わることでしょう。


主人公「りん」の名を目にした時「凛」の字が浮かびました。聡明で気丈であるのは勿論、大勢の人の中にあって、思いやり深い生き方は、まさに凛とした女性で、現代にも通じるものです。ラジオやテレビは勿論、電気も水道も無い当時の社会には、人の連帯、特に優れたリーダーが地域を支えるのに必要だったのでしょう。


一方、国は戦争に向かい、たたら産業もそれに合わせ翻弄され、黒井田家は大勢の雇人を抱えての事業に苦慮されています。その様はまさに、企業家としての宿命であったのでしょう。又、黒井田家は事業一辺倒でなく、政治、文化面への貢献も大きく、これが経営者としての大成をみたものと思います。郷土出身の生田長江や加藤正義等とのかかわりあいをみてもそれを物語っています。

今日の歴史ブームの中にあってこの様な郷土の前日の姿を肌に触れる様な感覚で、本書から深く学びました。


 

 短文の部 最優秀賞 I.I様
 主人公「りん」の一生を激動する明治期、たたらを舞台に黒井田家の人々、嫁ぎ先の主人吉岡とその義母と養子直矢、黒井田家に共に奉公した女性たち、日野で働く職人たちとの人間関係を通して見事なまでに描いた感動の書です。特に「りん」の他人を思いやるやさしい心、自分の事を犠牲にしてまでも相手を優先して事に当たる姿勢、そして常に何事にも前向きに行動する明るい性格など。理想的な女性像として描かれていることは現代人のわれわれとしても大いに学ぶ点だと思いました。それから奥日野のたたらの知識を得られたことは本当に有難い限りです。

 

短文の部 優秀賞 Z.M
 手にした小説「TAKARA」はずっしりと重く、字も小ぶりで老眼の来た私には骨が折れると思った。しかし、読み始めるとすぐにおりんさんの人生にぐぐっと引き込まれ、重さのある本を久しぶりに一気に読みました。言葉として知っていた「たたら」のこと。教書にはなかった日本近代史の真実を学んだ。日清戦争で死した祖父の兄の独立墓標をまさぐりながら、あらためて戦争の悲惨さを心に刻み、直矢さんの戦死とオーバーラップさせました。


短文の部 優秀賞 M.F様 

 二部・間地・船場・根雨・福岡等、皆馴染み深い場所で「赤朽葉家の伝説」よりリアリティがあった。鉄瓶の記述が効果的で上手い。ズロースの記述は蛇足かとも思ったが或いは重要な事かも知れない。ギンリンソウのことはどうなったのだろうと読み進んだが、ラストで帳尻が合ったようである。「たたら」の説明を旨く取り込んで、力作であったと思う。

 

短文の部 優秀賞 M.S

 神々の古の時空より日野谷を支え、多くの民と生死を共にし、日本一といわれる鋼を生み出し近来まで数々の辛苦に耐えはぐくんで来た。古より幾多の権力の元、多くの日野谷の民が、その業に打ち込んで来た。あなたはりんであり、私は善右衛門、緑次郎であったかもしれない。名もなき村下かもしれない。あるいは紅野にはかない恋をしていたのかもしれない。私の住む集落、宗金の地は刀鍛冶に由来しているとも言われる。私の集落には石倉家という鉄山で栄え、現在では墓碑のみ残るものもある。その宅地跡、たたら跡もわからない。しかしながら、この日野谷で老若男女が喜怒哀楽の中で行き続けたのはまぎれとない事実であろう。この書籍にご尽力いただいた皆様に感謝します。

 

短文の部 優秀賞 

 かつて、日本海に面した山陰は日本の表玄関であり、その繁栄をもたらしたのは、古来から伝わる製鉄技術「タタラ」と、大国主命、少彦名命という日本医薬の祖である神々が教え示した薬草でした。そしてもう一つ、忘れてはならないのが、厳しい自然と戦いながら、真剣に 「生きる事」と向き合った、山陰の人々の命懸けの努力でした。
山陰で生まれ育った私の体にも、きっとその「DNAの記憶」はあるのだと思いますが、それを体の奥底から呼び覚ましてくれるような物語、それが「TATARA」でした。
学問がなくとも、大きな時代のうねりの中で、心の「タタラ」で鍛え上げた「愛情」だけを「武器」にして、多くの試練が待ち受ける世間と戦い、懸命に生きる主人公の「りん」は、真面目で、懸命に幸せを求め生きてきた、私達の母や、祖母の姿を思い出させてくれます。
そんな記憶が、今もまだ息づいている気がする故郷の山々を、また歩いてみたいと思わせてくれる作品でした。

 

短文の部 優秀賞 

 本書を読むまで、明治と共に洋鉄輸入や高炉建設により、急速にたたら製鉄は衰えていったと思っていた。しかしそうではなかったようだ。コスト削減、経営の合理化、営業部門の配置、需要動向の情報収集及び分析など、鉄師たちは現代の企業となんら変わりないことを行っていた。まさに企業たたらと言えるのではないか。むしろ洋鉄や高炉の脅威が、たたら製鉄の経営面の進化を推し進めたと言えるかもしれない。
その結果、たたらが明治後も長らく生きながらえることになった。そして、日本の近代化を支えることになった。もちろん良質な鉄を生産する技術のたまものでもあるが、常に努力を怠らなかった鉄師及びたたら場の人々の心意気が支えることになったのではないかと思った。
中国山地の一鉄師を通じて日本の近代化が感じられるスケールの大きな作品で読み応えがあった。また、さり気ない情景の表現に雪解けと共に日野郡へ訪れてみたくもなった。

 



 遠方の方が多いので、わざわざおいでいただいての表彰式は行わず、該当者の方に直接お知らせして特産品をお送りすることになりました。たくさんのご応募ありがとうございました。

 


 

 

 

応募受付は終了いたしました。 

最優秀賞と優秀賞の発表
 

留意点 ※必ずお読みください。
応募された作品の著作権は主催者に帰属し、今後、ホームページや印刷物などに掲載させていただきます。またその際、内容の一部修正・翻案をさせて頂くこともあります。
応募された方の個人情報は、本事業以外の目的には使用しません。また、応募されたものは返却致しません。以上よろしくご了解ください。

 

【部 門】

ショートセンテンス(短文)の部・・・400字以内

ロングセンテンス(長文)の部・・・・400字以上~1600字以内

【受付締め切り】

2011年1月31日(月)(※必着のこと)

【応募条件】

この本をお読み頂いた方ならどなたでも構いません。

【応募点数】

お一人で、何作でもご応募が可能とします。

【審  査】

有識者を交え、伯耆国たたら顕彰会幹事会で2月上旬に審査。

【発  表】

2月14日(月)ホームページ上に受賞作品を発表。
ホームページにはイニシャルまたはペンネームでご紹介し、実名は記載しません。
※各賞の皆様には、それぞれ別途結果をお知らせすることとします。

【表彰式】 2月の下旬、各部門で上位受賞の方に対して表彰式を行います。その他の受賞者には直接、賞品を送らせて頂きます。


【各 賞】

◆ショートセンテンス(短文)の部

最優秀賞  1名様  日野米(10Kg)
優秀賞   5名様  金運を招く「金持せんす」
佳作    20名様  日野米(2Kg)

◆ロングセンテンス(長文)の部
最優秀賞  1名様  日南町特産品詰め合わせ
(地どり鍋セット、自然薯、トマトジュース、日南米)

優秀賞   2名様  地どり鍋セットと自然薯の詰め合わせ
佳作    5名様  日南米(5Kg)



 

 



 伯耆国たたら顕彰会
〒689-4503
鳥取県日野郡日野町根雨341-2(日野商工会内)
TEL:0859-72-0249
FAX:0859-72-1430

たたら学検定は、たたらに関する知識はもちろんのこと奥日野の歴史・地域的な知識もどれだけあるかを認定するご当地検定です。

年代 事項
5世紀初頭  ■日南町印賀の横穴古墳より刀・槍出土。原料鉄 は大陸系の輸入鉄と分析される。
6世紀後半 ■日本で砂鉄製錬による鉄の生産始まる。
古代   ■孝霊天皇の鬼退治伝説
   
平安時代 ■スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治伝説
   鬼やヤマタノオロチは、タタラ師をあらわすと いわれている。
鎌倉時代 ■伯耆会見郡古鍛冶の始祖大原安綱、反りのある 日本刀を創始(源氏の宝剣「鬼切」)
 1254年  
  ■古都文次郎信賢、土着して日南町印賀阿太上山 で印賀鋼をつくる(日野郡史)
   
 1333年 ■元弘の乱船上山の戦い
   隠岐島を脱した後醍醐天皇が挙兵を行った最初 の戦い。この後に鎌倉幕府を滅ぼして建武新政 権を樹立する。
   
室町時代  
 1484年 ■日野の鉄山を支配し、鉄の技術集団であった蜂  塚氏が江美城を築城。
 1565年 ■蜂塚氏、毛利・尼子の戦により滅亡。江美城落城。
江戸時代  
 1600年
 慶長5年
尼子氏の家臣木下家が日南町阿毘縁の大谷山、笠木の谷中山で鉄作りを開始、1615年には法橋家とともに山分けをして鉄山師となる
 1638年 ■松平直正が松江藩主となり参勤交代が行われる ようになり、そのルートが出雲街道と呼ばれる ようになった。日野郡産鉄も運ばれた。
 1694年 ■日野郡鉄山を鳥取藩の御手山とし、鉄奉行、鉄
   目付を置く。(~元禄11年8月)
   
 1779年 ■近藤家(根雨)日野郡山上村笠木の谷中でたたら製鉄を始める
 1784年 ■日野郡宮市村の下原重仲が「鉄山必用記事」を 著す。
 1800年 ■鳥取藩による鉄山支援策として、海路為替回漕 仕法が始まる。日野郡産鉄は米子港から全国へ 流通する。
   
明治時代 ■日野川水系の根雨-車尾間に15隻の川船が通い鉄 も運送する。(~明治19年)
 1883年  
 1893年 ■会見郡米子町の有志、日野川流域の砂鉄採取停 止の陳情書を提出する。
   長い年月をかけ、たたらで流す砂が堆積して島々 が作られ弓ヶ浜半島になったと云われている。 
   
大正時代 ■第一次世界大戦講和により、鉄価が三分の一に 下落する。
 1919年  
 1921年 ■近藤家(根雨)経営のたたらがすべて廃業とな る。各鉄山は製炭所となる。
   
昭和時代 ■近藤家、根雨公会堂を建築し根雨町へ寄贈。
 1940年  

 

 

明治維新を迎えたときは天保の大凶作などを経て、近藤家以外の大鉄山師は姿を消していたが、明治初期には通貨の改革、鉱物国有化の実施、また物価上昇と鉄類輸入の開始によって鉄市場は混乱を極めていた。


  近藤家は既に天保7年(1836)に大阪岡崎町に自家産鉄販売の出店(鉄店)を置き、独自の販売網を確保して鉄を売り捌いていた。また出店の支配人は明治 になっても年に1~2回は東海・東山・北陸道中筋にある鉄の仲買人を訪問して鉄を売っている。また当時国内外の情報に乏しかった根雨本店には、大阪出店か ら数日ごとに手紙を送り、これがまた本店の判断を容易に促すことになった。


  明治15年となると維新以来発行してきた不換紙幣の回収により全国的にデフレ傾向となり、明治17年には10年と比較して郡内たたら数は25ヶ所(自給的 小鉄山師を含む)から18ヶ所に減少、砂鉄採取高は2万駄(60万貫)減少、郡内産鉄販売総価格も13.6万円から僅か5~6万円に減った。この不況に対 して、安永8年(1779)からほぼ順調にたたら経営を放棄するかどうかの岐路に立たされる。


  そこで喜八郎は、古来からのたたらの炉生産は残し、大鍛冶部門に蒸汽機関と蒸汽鎚の導入で合理化を図る決断をして溝口二部の福岡に新工場をつくり、明治 21年から操業を開始する。この工場は順調に従来のたたら錬鉄部門の生産量の数倍の成績をあげ、やがて大正期には近藤家全体の6たたらが生産した鉄の 81%を集めて錬鉄とする主力工場となった。


  明治20年代中頃には、輸入鉄が和鉄の半額の価格で多量に出回って来たので、たたら製品には刃物、造船資材などに限定され始める。しかしこの頃から軍部、特に海軍からの注文が多くなり、出雲の鉄山師と共同で呉、横須賀の工廠其他に納品が多くなる。


  大正期に入ると、第一次大戦のはじまりで鉄の需要が高まり、鉄価は急上昇するが、大正8年の大戦の終わりとともに鉄価は3分の1に急落し、近藤家はたたら を休業すると共に、最後まで残した谷中山(山上)、新屋山(多里)、吉鈩山(大宮)も大正10年には廃業とし、ここに143年間途絶えることのなかったた たら稼業を終わり、以後は特殊鋼を英国、スウェーデンなどから輸入し「旭ハガネ」と称して販売することになる。なお、昭和3年には、新しく東京神田に東京 支店をつくり、輸入鉄の販売をはじめる。


 


この章の記事は、下記の方々ににご協力いただき作成しました。

たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏

鳥取藩は元禄7年(1694)たたら全体を把握し運上銀を課するため鉄奉行、鉄山 目付をおき御手山制度(たたらを藩営)をはじめたが、これによりたたらが衰微して来たので元禄11年(1698)にはこの制度は取り止めとなり、以後たた らの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみで許可されるようになった。


  其他藩は日野産鉄を米子に集め、為替金ほ交付して鉄買船に売渡す海路為替回漕仕法(寛政12年~1800)、また鉄鋼銑江戸直回仕法(文化13年~1816)、境鉄山融通会所の設置(天保6年~1835)など産鉄の販売を促進する政策を進めている。


  江戸期に活躍した鉄山師達の氏名また鉄生産量については詳しい記録は見当たらないが、文化13年からの江戸直回仕法の記録(近藤家蔵)によれば、根雨手嶋 伊兵衛家(松田屋)一族の出荷は2059束(27796貫)、金額は1728両であったが、次に多く出荷したのは根雨近藤家、更に大宮・生山の段塚家、大 宮の青砥孫左衛門(福市尾)、黒坂の緒形、法導寺の音右衛門一族(伊田屋)、二部の足羽助八と続いている。


  たたらの労働者数は、安政5年に(1858)に近藤家が経営していたたたらは7鉄山であったが、その内労働者とその家族の氏名、出生地などが記入してある「役人別増減取調帳」をみると6鉄山の山内人口は合計658人、内職人は241人であった。


  従って当時郡内に30近くあったたたら全体の労働者は多くいたことが推定出来、更に村方からの出職者を入れると鉄山の人口扶養力は大きなものであった。
 

  幕末から明治元年にかけて、近藤家を除くたたらの調査で「たたら、鍛冶屋稼方書上帳」(近藤家蔵)をみると、明治元年奥日野分(奥日野とは下黒坂、下菅以 南の日南町)として立石村福来山、葉侶村篠原山以下20ヶ所のたたらが報告されているが、いずれも小鉄山で、稼業も年間数ヶ月の自給的たたらであり明治初 年には姿を消している。


  江戸期、たたらの経営について詳しく書き上げた名著に『鉄山必用記事』(鉄山秘書ともいわれる)がある。この著作は江府町宮市の鉄山師下原重仲が、天明4 年(1784)、47歳で書き上げたもので、重仲は「鉄山のことは昔より書き伝えたものはなく口伝のみである。これでは今後たたらが衰微するので、気のつ いたことを不要な紙に書き残したものである」としているが、村下、山子の大工(大鍛冶職人)などの古老から聞いた話も書き入れている。内容は金尾子神のこ と、たたら歌、砂鉄の採り方、炭の焼き方、炉の造り方など、たたらのことに関するすべてのことについて記述してあり、江戸期たたら経営、操業に関する解説 書としては最高のものである。

 

  しかし重仲は多くの資本を持つ鉄山師の力が強くなり、小鉄山師の経営は困難になったと嘆き、たたら経営をやめている。重仲は鉄山師として四代目とされているが、二男の恵助もたたらを江府町俣野の日名山で経営している。

 


この章の記事は、下記の方々ににご協力いただき作成しました。

たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏

 

 中世には赤目系砂鉄(褐色がった銑鉄生産に適する)を使用して銑鉄をつくり、鍛打 により鍬・鎌などを造ったと推定されているが、また真砂砂鉄(黒色で鋼生産に適する)を選び、刀剣などの刃物を鍛造している。特に刀剣の原料として有名な ものは、建長年代に印賀の阿太上山で古都文次郎信賢が造った印賀鋼が鋼の王とした、当時の鍛冶屋に重んじられたことがその頃の本に載せられている。この印 賀鋼は江戸期の大阪鉄市場でも、根雨の鉄山師手嶋伊兵衛(松田屋)の手によって特に高価で売り出されていたことが近藤家文書に記されている。この印賀鋼は 磁鉄鉱系の真砂砂鉄から製錬された鋼である。


  中世には日本刀の工匠として名高い会見郡出身の大原安網が現われている。安網は、これまでの直刀から反りをつけた現在の日本刀の創始者であるが『太平記』 には、源氏の宝刀「鬼切」(国宝)に作刀したことが記され、また安網の子真守が平家の名刀「抜丸山」(重文)の作者であるとしている。


 

 


この章の記事は、下記の方々ににご協力いただき作成しました。

たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏

日南町では、阿毘縁菅沢線拡幅工事中に発見された5世紀初頭とみられる印賀6号墳の中から、27センチメートルの直刀が発見されたが分析の結果、原料鉄は外国産と判明した。一般に日野町の横穴墓などの古墳から古代の鉄製品が出土することが多い。


 

 西伯郡伯耆町では、国道181号線岸本バイパスの道路改良工事が計画され、平成 19年度には埋蔵文化財の発掘調査が実施された。そのうち特に伯耆町や坂長の第6遺跡からは、鍛冶工房遺跡から大量の鉄製品、鉄滓などが出土したが、この 遺跡は古代の会見郡営の官営工房であった可能性が高まった。


 

 平安時代の伯耆国鉄生産は9世紀に調として鉄鋌(てつてい)・鍬を出し、庸として鍬を中央に差し出した記録が延喜式にある。また1073年から20年間に東大寺封物として4340鋌 もの鉄を全国の中で伯耆国のみ差し出していることが平安遺文にあることは、平安時代伯耆国は一大製鉄地であったことが窺われる。このことは、国道9号線の バイパス建設工事に伴う発掘で、大山北東部の東伯耆で22か所もの農具など生産する鍛冶遺跡が発見されたことも関連があると考えられる。


この章の記事は、下記の方々ににご協力いただき作成しました。

たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏

  • 鑪(たたら)・鈩(たたら)
    たたら製鉄を行う工場(高殿:たかどの)、または、たた ら製鉄を操業する区域
     
  • たたら製鉄 
    原料の砂鉄・鉄鉱石を鞴(ふいご)で風を送り、木炭の燃焼によって還元(製錬)し、鉄や鋼などを得る製鉄法
     
  • 金屋子神(かなやごしん)
    製鉄・鍛冶・鋳物などを業とする人々が、祀る神 

  • 玉鋼(たまはがね)
    砂鉄を原料とし、たたら製鉄により造られる鋼で、通称名

  • 印賀鋼(いんがはがね、いんがこう)
    玉鋼の商品名、日南町の山ノ上地域で造られていた玉鋼

  • 数多い金属元素のうちで最も多く用いられている元素

  • 鋼(はがね)
    鉄に炭素が重量比で0.04~2.1%(工業上)混ざった合金で焼きが入るため、刃物の材料などになる。

  • 銑鉄(せんてつ)
    鉄に炭素が重量比2.1%~6.7%(工業上)あり、硬くて脆く鍛錬で きないため、鋳物の材料となる。

  • 銑(ずく)
    銑鉄のこと

  • 和鉄・和鐵(わてつ)
    たたら製鉄で造られた鉄

  • 和鋼(わこう)
    たたら製鉄で造られた鋼

  • 和銑(わずく)
    たたら製鉄で造られた銑鉄

  • けら(けら)
    たたら製鉄で造られた鉄・鋼・銑鉄の塊(かたまり)

  • 砂鉄(さてつ)
    たたら製鉄の原料。種類によって真砂砂鉄(まささてつ)、赤目さて つ(あこめさてつ)に分けられる。 

  • 炉(ろ)
    たたら製鉄で使用される製鉄炉。主に粘土・真砂土(まさつち)造られるが、角炉・丸炉は耐火煉瓦(内部)で造られた。
  • 小鉄・粉鉄(こがね)
    砂鉄のこと

  • 木炭(もくたん)
    木の炭

  • 村下(むらげ):たたら製鉄の技師長
    たたら製鉄の技師長

  • カナクソ
    製鉄・精錬時にでる不純物。鉄滓(てっさい)、ノロともいう。


 【たたら用語集】 : 日南町たたら研究会代表 山本 裕二 氏のご協力により構成されています。

たたらの最後の工程が大鍛冶での鍛打でつくる小割鉄の生産である。炉から回して来た銑 鉄、歩鉧(鋼の塊で成分が不安定)のうち銑鉄は含む炭素分が多く均一でないので先ず左下場に回し、左下職人が小炭(消炭)の上にのせ、吹差吹子(箱吹子) で温度を調節し、溶ける直前まで熱して、冷ましてから本場(鍛打の場)に回す。本場では作業長の大工の先導で金床に向う4人の手子が。左下鉄に歩を加えて 重い鎚で鍛え、長さ60、幅4~5、厚さ1センチ位の小割鉄をつくる。これを菰で梱包し縄をかけて出荷するが小鍛治はこれを買って鍬、鎌、なたなどをつくる。な お金床などの注文があれば30貫、40貫の製品などにして注文に応じて造った。

 


この章の記事は、下記の方々ににご協力いただき作成しました。

たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏

新しくたたら操業を初めるには、先ず炉熱を逃がさないため徹底的に乾燥させるための地下構造(本床釣り)が必要となる。

それには地下を深さ3~5メートル掘り下げ、長さ約5メートル、幅3メートルの穴をつくり、底部には排水路と共に坊主石(尖頭部のある石で当地方では捨尾石という)を敷き、順次小石、赤土、まさ土、炭と重ね、その上に炉をつくる。

 この地下構造と高殿(鉄製錬の建物)、職人住宅、炭小屋など建築に要する労働力 と費用、さらに操業の諸道具、天秤吹子造り其他について、明治22年に新しく日野町板井原にたたらを打込み、明治33年まで操業した近藤家経営の大西山支 配人が試算した労働力と費用について次のような記述がある。
労働力―地形新田師(土地造成人)50人
砂鉄置場造成70人 地下構造(本床)造り100人 建築大工236人其他合計516人  費 用―1,600円

 

 こうして乾燥の終った地下構造上部を均した上に炉をつくるが、寸法は長さ3メートル、横1メートル、高さ1.4メートル位のもので(『砂鉄精錬業一班』)、鉧押(鋼を造る目的の操業で鋼押ともいう)と銑押(銑鉄を造る目的の炉の操業)とでは、銑押の炉は鉧押より少し高く、底部は少し狭い位で大差はない。炉下部を造る釜土は、硅素70%も含む特別の元釜土とよばれるものを使用するが、中・上部は二割土と称するまさ砂(砂鉄は混入していない)と粘土を混合したものを使用する。この築いた炉にひと晩生木を入れて焚き、乾燥の終った高殿の中の炉で鉄をつくる。

 


この章の記事は、下記の方々ににご協力いただき作成しました。

たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏


新しくたたら操業を初めるには、先ず炉熱を逃がさないため徹底的に乾燥させるための地下構造(本床釣り)が必要となる。

それには地下を深さ3~5メートル掘り下げ、長さ約5メートル、幅3メートルの穴をつくり、底部には排水路と共に坊主石(尖頭部のある石で当地方では捨尾石という)を敷き、順次小石、赤土、まさ土、炭と重ね、その上に炉をつくる。

 この地下構造と高殿(鉄製錬の建物)、職人住宅、炭小屋など建築に要する労働力 と費用、さらに操業の諸道具、天秤吹子造り其他について、明治22年に新しく日野町板井原にたたらを打込み、明治33年まで操業した近藤家経営の大西山支 配人が試算した労働力と費用について次のような記述がある。
労働力―地形新田師(土地造成人)50人
砂鉄置場造成70人 地下構造(本床)造り100人 建築大工236人其他合計516人  費 用―1,600円


 

 こうして乾燥の終った地下構造上部を均した上に炉をつくるが、寸法は長さ3メートル、横1メートル、高さ1.4メートル位のもので(『砂鉄精錬業一班』)、鉧押(鋼を造る目的の操業で鋼押ともいう)と銑押(銑鉄を造る目的の炉の操業)とでは、銑押の炉は鉧押より少し高く、底部は少し狭い位で大差はない。炉下部を造る釜土は、硅素70%も含む特別の元釜土とよばれるものを使用するが、中・上部は二割土と称するまさ砂(砂鉄は混入していない)と粘土を混合したものを使用する。この築いた炉にひと晩生木を入れて焚き、乾燥の終った高殿の中の炉で鉄をつくる。

 


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たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏

 

日本の弥生時代から古墳時代初期までに使用され、現在まで残った鉄は、その含む諸元素、諸金属から大陸から渡来した鉄素材であることがわかっている。日本固有の砂鉄または鉄鉱石を使用した鉄生産を始めたのは発掘などから6世紀後半とされている。

 日本のたたら(鑪・鈩)の文字使用も古く、8世紀初期の『日本書紀』(721年神代巻上)に「蹈鞴(ふいご)、此云―多多羅(たたら)」とあり、同時期の古事記にも「タタラ」の文字が使用されている。
 しかし現在今のたたらと同じ製鉄施設とは異なるものと考えられる。 たたらによって生産された鉄鋼の特性は、近代的高炉のように石炭は使用せず、炭を還元に使用して低温還元、溶解をするので、不純、有害元素の混入がみられず、刃物などに使用するには最高の鉄鋼が出来ることである。鉄は金属として地球に最も多く存在するが、この鉄の使用によって農産物の増収、また商工業の目覚しく発達したことは計り知れない。

 また鉄は高温で有する硬い組織を急冷することで、常温でもその硬さを保持する焼き入れが出来るので、刃物、農工業用の道具にはこの熱処理が施してある。 また鉄は他の金属との融合が広範囲に出来、ステンレス其他有用な合金となる。 

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