明治維新を迎えたときは天保の大凶作などを経て、近藤家以外の大鉄山師は姿を消していたが、明治初期には通貨の改革、鉱物国有化の実施、また物価上昇と鉄類輸入の開始によって鉄市場は混乱を極めていた。
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たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏
明治維新を迎えたときは天保の大凶作などを経て、近藤家以外の大鉄山師は姿を消していたが、明治初期には通貨の改革、鉱物国有化の実施、また物価上昇と鉄類輸入の開始によって鉄市場は混乱を極めていた。
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鳥取藩は元禄7年(1694)たたら全体を把握し運上銀を課するため鉄奉行、鉄山 目付をおき御手山制度(たたらを藩営)をはじめたが、これによりたたらが衰微して来たので元禄11年(1698)にはこの制度は取り止めとなり、以後たた らの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみで許可されるようになった。
幕末から明治元年にかけて、近藤家を除くたたらの調査で「たたら、鍛冶屋稼方書上帳」(近藤家蔵)をみると、明治元年奥日野分(奥日野とは下黒坂、下菅以 南の日南町)として立石村福来山、葉侶村篠原山以下20ヶ所のたたらが報告されているが、いずれも小鉄山で、稼業も年間数ヶ月の自給的たたらであり明治初 年には姿を消している。
しかし重仲は多くの資本を持つ鉄山師の力が強くなり、小鉄山師の経営は困難になったと嘆き、たたら経営をやめている。重仲は鉄山師として四代目とされているが、二男の恵助もたたらを江府町俣野の日名山で経営している。 |
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たたら研究会員・郷土史研究家 影山 猛 氏
中世には赤目系砂鉄(褐色がった銑鉄生産に適する)を使用して銑鉄をつくり、鍛打 により鍬・鎌などを造ったと推定されているが、また真砂砂鉄(黒色で鋼生産に適する)を選び、刀剣などの刃物を鍛造している。特に刀剣の原料として有名な ものは、建長年代に印賀の阿太上山で古都文次郎信賢が造った印賀鋼が鋼の王とした、当時の鍛冶屋に重んじられたことがその頃の本に載せられている。この印 賀鋼は江戸期の大阪鉄市場でも、根雨の鉄山師手嶋伊兵衛(松田屋)の手によって特に高価で売り出されていたことが近藤家文書に記されている。この印賀鋼は 磁鉄鉱系の真砂砂鉄から製錬された鋼である。 中世には日本刀の工匠として名高い会見郡出身の大原安網が現われている。安網は、これまでの直刀から反りをつけた現在の日本刀の創始者であるが『太平記』 には、源氏の宝刀「鬼切」(国宝)に作刀したことが記され、また安網の子真守が平家の名刀「抜丸山」(重文)の作者であるとしている。 |